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エキスパートストーリー

常に全開! MAX織戸のレーサー一筋人生!! (2/4)
レーサー/織戸 学

小さい頃からレーサーになることを夢見て、その夢を実現させた男MAX織戸。誰にも負けないアクセルの踏みっぷりの良さとそのドライビングテクニックで、スーパーGT500クラスドライバーまで駆け上がった。そんな織戸 学選手の「熱い」全開人生のすべてを聞いてきたゾ!
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エキスパートプロフィール
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レーサーを夢見続けてきた男が、走り屋からレースデビューへ……。全国の走り屋やモーターファンの夢を背負ってのデビューは、まさに衝撃的なものだった。「夢は願い続ければきっと叶う」その言葉を信じ、ひたすら夢に向かって走り続けた織戸選手のストーリーがここにある!

織戸 学インタビューその2
「ドリコン出身の走り屋がレーサーを目指す!」

> MSC(以下省略):レーサーになるという夢を持った織戸さんは、少年時代から人前に立つということにはまったく抵抗なかったということですが……。

織戸(以下省略): そうですね、とにかく人前に立つことが大好きでした。高校の頃は学級委員とかもやりましたよ。それは僕が通っていた高校では、卒業式のときに壇上で学級委員長が代表で卒業証書をもらえるという役があったからなんです。卒業証書を壇上でもらえるのは学級委員長だけだったんですよね。高校2年生の卒業式でそれを見て、それがやたらカッコ良く思えてね、それだけのために学級委員長に立候補しました。

そして晴れて学級委員長になりました。だけど僕は学級委員長会議というのに一度も出席しなかったために、僕のクラスだけ女子の副学級委員長が壇上で卒業証書を受けとることになっちゃったんですよ。意味なかったですね。ちょうどマッチ(近藤正彦さん)がレーサーになった頃で、僕もアイドルになれば、レーサーになれるのかと思って、アイドルのオーディションも受けたりして……。とにかく何かやる行動の先には常に「レーサー」というものがありましたね。


> クルマに乗るきっかけとなったのはどんなことだったのですか。

クルマは、高校3年のときに免許証を返してもらってから、すぐに免許を取得しに教習所に行きました。それまではバイクにばっかり乗っていたから、実際にはクルマに興味が無くなりかけていたんですよ。根底には4輪のレーサーを目指していたという部分はもちろんあったのですが、その頃実は2輪のレーサーを目指していたりしたんですよね。やりだすと一直線なところがあるからね。だからクルマの免許は取ったけど、その頃の僕はバイクばっかりでしたね。

> 18歳から少しの間は、バイクにのめり込んでしまったのですね。

20歳までは、バイクとサーフィンに明け暮れた毎日でした。そんな感じだったので、湾岸地帯の走り屋としてバイクで走ったり、色々な峠や走り屋スポットと呼ばれた場所にも遠征に行ったりしました。しかしこんなことをやっていても上にはいけないと思い、筑波サーキットでノービスのライセンスを取って走ったりもしました。しかし一緒にサーキットに走りに行ってくれる友達もいない。そんなことをやりながらも「つまらないな……」と思うようになっていたのも事実。

ちょうどその頃、僕は自動車整備の専門学校に行っていたのですが、学校で土屋圭市さんの峠のビデオを見たんですよ。このビデオを見たときの衝撃はハンパじゃなかったですね。「何だ、これは……」と正直思いました。それまで頭から抜けていた4輪というものが甦ってきました。初めて見たドリフト……それから僕のなかでクルマ一色となりました。

> 最初に手に入れたクルマは何だったのですか。

最初はZ31でしたね。そのクルマで湾岸とかにも走りに行きましたが、どちらかというと普通に乗っていたという感じでしたね。でも土屋さんのビデオを見てからは、ハチロクに乗り換えました。ハチロクを購入した日に「デフ」を組んで走りに行きました。正直そのときは「デフを組めばドリフトは出来る」と簡単に思っていましたね。でも案の定ぶつかって……。損傷はフロント回りだったので、解体屋から部品を調達してすぐ直したんですが、それから本当にクルマでの「走り」という部分にのめり込みましたね、本気で……。

> それが20歳くらいのときだったのですね。

20歳ちょっと手前くらい前だったかな。そのハチロクは黒・銀のレビンでした。あの頃は高かったね。ひょっとしたら新車より高かったんじゃない?

> たしかその当時だと思うのですが、「ハチロクに乗って速い奴が千葉にいる」っていう噂を聞いたことがありました。それはやはり織戸さんだったのですね。

その頃の僕はちょっとキレていたから……たぶん、そうでしょう。走り始めの一発目で僕はハチロクでクラッシュしてしまったから、みんなが走るスポットではなく、裏方で練習しました。ここで練習してから表の舞台に行くんだと、自分のなかでくだらないストーリーを決めて練習をしました。当時目立って走っていた奴らは、チームを組んだりしていましたが、僕は一切そういったものには入りませんでしたね。

2輪でやっていた頃の仲間だった奴らでしたが、僕はチームとか組むのが、当時好きではなかったのです。練習といえば駐車場とかでやりました。その頃僕の友達がジムカーナをやっていたのでそんな仲間とパイロンを並べて8の字をやったり、タイムを計ったりして、とにかく練習しましたね。それでそこからジムカーナにもハマって、働いていたところもジムカーナショップに転職し、ジムカーナの競技にも出場するようになりました。

> それが4輪レーサーへの事実上の第一歩だったのですね。

ジムカーナは最初ダメだったけど、何度か出場するようになってからは何度も1番を取るようになって……そうなると今度はジムカーナに飽きてしまって……まだ若かったから気持ちのなかでは「もっとハデにかましたい!」という気持ちが沸々と出てしまったのですね。そうなると今度は、正式に走り屋デビューですよ。
 当時乗っていたハチロクを、車高短にしてマフラーを換えて……と、そういったことで手を加えていってクルマも走り屋仕様と呼ばれるものになっていきました。


> タイヤとかはどうしていました?

ジムカーナっていうのはSタイヤでやっていたので、僕はみんなが使い古した山がないようなSタイヤをもらってきて、そのタイヤで色々なところを走りましたね。だからそのせいもあっていつも速かったですよ、僕は。当時の走り屋はまだ廃タイヤしか履いていない時期だったせいもあって、そんななかでSタイヤを履いてドリフトをするというのは、圧倒的に速かったと思います。

> でもSタイヤでドリフトをするということは、勢いも必要だし現在のドリフトの流れに近いものがありますよね。

当時の僕のドリフトは、角度などはあまり付けていませんでしたが、スピードはもの凄かったと思いますよ。その頃の一般的なドリフトといえばシフトロックだったのですが、僕はジムカーナをやっていたので、サイドブレーキとかも使っていましたね。
クルマを走り屋仕様と呼ばれていたものに換えた頃、湾岸地区のメインコーナーに対して「裏のギャラリーコーナー」というものがあったんですよ。僕はそこからスタートしました。その裏のギャラリーで僕がヒーローになってきた頃に、ちょうど「CAR BOY」という雑誌が行っているドリフトコンテストがあって、その頃東京に住んでいる奴と知り合いになり、そのドリコンに出場することになりました。その反面、サーキットのライセンスを取得したり、たまにスポーツ走行とかをしたりしていました。

> カーボーイドリコンに出場したとき、織戸さんはハチロクでしたよね。S13とFC3Sの3台で出場してクラス優勝に輝いたのがドリコンのデビュー戦ですね。

その優勝がきっかけで、雑誌でも大きく取り上げられてもらい、編集部(CAR BOY)にも遊びに行くようになりました。その後で僕も180SXを購入してシルバーにカラーリングも変更し、そこそこ改造して乗り始めました。

> その後にもドリフトコンテストには出場しなかったのですか?

たまたま前回3人で出場したうちのひとりが海外に留学、もうひとりのクルマは壊れていて出場出来ないという感じだったのですが、僕は180SXを買ったばかりだったので「だったら僕ひとりで出場して良い?」と聞いてひとりで出場しました。

> それが筑波サーキットで行われたカーボーイドリコンだったわけですね。

そう、その大会でも優勝しました。その後は「グランドチャンピオン大会」という最終戦があって、これは1年間で誰が一番なのかを決める大会。それがカーボーイドリコンにおいても最初の全国大会でした。そこで優勝し「初代チャンピオン」の名声を手に入れました。そのときチャンピオンになると中古車がもらえるという企画もあって、その賞品としてハチロクをもらい、僕はレースをやりたかったから乗っていた180SXも売って部品を購入してレースをやろうと思いました。

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